《悲愴》のお話2013/07/02 13:36

はじめまして!仙台市民交響楽団でコンサートマスターを務めさせていただいております、ヴァイオリンパートの庭野と申します。

今回指定されたブログのお題はズバリ、チャイコフスキーの『交響曲第6番《悲愴》』。
言わずと知れた超名曲であり、このようなお題を与えられたことがすでに悲愴・・・。

せめて「ついに解明!衝撃のチャイコフスキー陰謀死説の真相とは!?」などとしてくれれば、まだあれこれ思うままに書きようがあったというものです。


ところで、チャイコフスキーと聞いてまず思い浮かぶのが、あの眉間にしわを寄せて下から睨みつけるようなコワモテの老人像でしょう。
もしくは左手で頭を抱えるようなポーズを撮った横顔の写真。

常に「憂い」がまとわりつくような印象は、人々の作品に対するイメージにも影響を及ぼし、特に『交響曲第6番《悲愴》』ともなると、誰もがチャイコフスキーの「暗い情熱」に導かれざるを得ないようです。

試しにCDショップの《悲愴》コーナーを覗いてみてください。
ジャケット写真からすでにただならぬ空気が漂っており、指揮者の苦悶の表情は、作品の行く末をありありと示しているようではありませんか。
(この曲に限っては、副題によるところが多分にありますが。)


そんな中、ふと私の目を引いたのは、ヤニック・ネゼ=セガンの指揮によるCD。

昨今の音楽界をけん引する旗頭として台頭中の若手指揮者ですが、そのジャケットがちょっと「変」なのです。
ブルゾン風の上着に黒いVネックシャツ、そしてジーンズ姿の若者(指揮者本人)が、腕組みをしながら自信たっぷりのドヤ顔でこちらに笑いかける。

ちょっと待って、交響曲第5番なら分かるけど、《悲愴》でそんなグイグイ系はちょっと・・・。

しかし、面喰いつつも、私はこのネゼ=セガンの姿勢が、《悲愴》交響曲の本質を突いていると感じたのです。

クラシック・ファンなら一度は手に取ったことがある、全音楽譜出版社のミニチュア・スコアの解説のなかで、著者は、《悲愴》交響曲を「レクイエム」と評する論調を批判しており、「もっと深く死と生の一般化された体験といったものを描いている」と述べています。

また、件の指揮者、ネゼ=セガンも、CDの解説文のなかでは、この曲を安直に死と結びつけることを良しとはしていません。

もちろん、この曲がチャイコフスキーの死の直前、それもロシア革命につながる激動の19世紀末に書かれたことや、彼の陰のある性格のことを考えると、不穏なドラマ性を作品に求めることは決して間違いではないでしょう。
しかし、これらは単にチャイコフスキー自身の絶望を音にしたものなのでしょうか。

優美な第2楽章、心躍る第3楽章を聴いて、「これが本当に《悲愴》?」と頭を抱えた経験がおありの方も多いはずです。

生きる喜び、人を愛すること、痛み、悲しみ。

チャイコフスキー自身もこの曲の標題を「謎」と表現しているように、演奏者も聴衆も作品の向かう先に答えを見いだすことはできないのです。

しかし、演奏者が頭を抱えていては話になりません。
楽譜を見ながら自問自答を続け、なんとか解釈の着地点を見つける必要があります。

やはり死の痛ましさにむせび泣くことになったとしても、チャイコフスキーの投げかけた「人生とは?」という難問に対し、いかに内容たっぷりで説得力のある解答案を示すことができるか。

私はネゼ=セガンのCDを眺めながら、この捉えどころのない物語に対し、悲哀に安寧することなく、あえて自信に満ちた立ち姿を見せる指揮者に驚嘆しつつも、自分たちの演奏により、お客様にどれだけ豊かで千差万別な感動をお伝えすることができるか、今から不安と期待でいてもたってもいられないのです。


・・・以上、とあるアマチュア音楽家の雑感、ご精読ありがとうございましたm(__)m

世界的な元オーボエ奏者にして、今や東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の音楽監督を務める魂のマエストロ、宮本文昭先生のタクトのもと、いつも以上の力を発揮する(はずの)仙台市民交響楽団。
ぜひお楽しみに☆


(ヴァイオリン 庭野)